アオと私
私は青森県津軽地方、岩木山のふもとで生まれ育ちました。
戦後まもない日本復興の時代、一頭の馬が私たち家族のために働いて一家の暮らしを支えてくれました。
馬の名前は「青馬(アオ)」。
アオは来る日も来る日も休むことなく、山で伐採された杉の木を運ぶ仕事を手伝ってくれました。
アオと悲しい別れをしたのは、今から五十数年前、私が小学校二年生ぐらいの時でした。
戦後まもない、本当に物のない不自由な時代でした。
今のように車も自転車もなく、バスが一日五~六本しか走っておらず、どこに行くにもそれはそれは不便でした。
私が小学校の頃は、校内で履く上履きは藁ぞうり、女の子は絣のもんぺを履いていたものです。
今の子どもたちには想像もできないことでしょう。
当時、私の実家は林業と製材業を営んでいました。山林を持っていたので、アオが我が家に来てくれたことで仕事がとてもはかどりました。
ある日、父が私を山に連れて行ってくれた時、ちょうどお昼時で職人さんたちは湧き水のある木陰でお弁当を食べていました。その様子を見て、私はびっくりしたのを今でも鮮明に覚えています。十~十四人くらいの職人さんが、みんな同じおかずを食べていました。大きなアルミのお弁当箱にご飯が詰められ、梅干一粒とたくあんがぎっしりのっていました。昔はそれだけで美味しくいただいたものです。
そんな時代に牛は田んぼに入り、馬は木材や荷物を運び、それぞれの家のために働いたのです。
ある寒い日の出来事です。杉の木を馬そりからトラックへ積み替えていた時、そのトラックが雪のぬかるみにはまって転倒しそうになりました。もう一台のトラックで引っ張ってもぬかるみから抜けることができず、二~三時間してあっという間にあたりも暗くなり、吹雪の中みんなが途方に暮れていました。
そんな時、一人の職人さんが「アオしかいない」と叫び、馬小屋で休んでいるアオを連れてきました。そしてアオとトラックをワイヤーでつなぎ、アオに引っ張らせる用意をしました。